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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)8317号 判決 1983年9月26日

原告 国

右代表者法務大臣 秦野章

右指定代理人 櫻井登美雄

<ほか四名>

被告 株式会社 北海道拓殖銀行

右代表者代表取締役 五味彰

右訴訟代理人弁護士 阿部裕三

主文

一  被告は、原告に対し、金三億九七〇〇万八三一七円及び内金三億六一六二万二四四九円に対する昭和五三年一月一五日から支払済まで年六分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文と同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告は児玉譽士夫(以下「児玉」という。)に対し、左記定期預金債権(以下「本件定期預金債権」という。)を有しており、昭和五一年三月一六日までの確定利息は五〇六二万七一三六円となる。

預金種別 定期預金

口座番号 二―二二〇―二三七

金額 三億六一六二万二四四九円

満期日 昭和五三年一月一四日

支払地 被告銀行築地支店

2  原告の機関である東京国税局長は、昭和五一年三月一六日送達の債権差押通知により、児玉に対する昭和五〇年度申告所得税本税一〇億六三六六万〇四〇〇円、同加算税三億一六六七万七四〇〇円及び同日までの右本税に対する延滞税二億四九九六万一四八五円の合計一六億三〇二九万九二八五円の租税債権を徴収するため、本件定期預金債権元本及び同日までの利息を差し押えた(以下「本件差押」という。)。

3(一)  東京国税局長は、同日到達の書面で、被告に対し、右差押債権について昭和五三年一月一四日までに原告に支払うよう請求した。

(二) 被告は株式会社である。

4  よって、原告は被告に対し、国税徴収法六七条に基づく取立権の行使として、右差押に係る本件定期預金債権元本三億六一六二万二四四九円と同利息五〇六二万七一三六円から同利息に係る源泉所得税一五二四万一二六八円を控除した残額三五三八万五八六八円との合計三億九七〇〇万八三一七円及びその内金である右元本三億六一六二万二四四九円に対する弁済期の翌日である昭和五三年一月一五日から支払済まで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

全部認める。

三  抗弁

1  (差押の無効)

請求原因2記載の原告による差押には、次のとおり重大かつ明白な瑕疵がある。

すなわち、原告の機関である玉川税務署長は児玉に対し、昭和五一年三月一三日送達の繰上請求書で請求原因2記載の昭和五〇年度申告所得税等の合計一六億三〇二九万九二八五円の納期限を同月一五日午前一二時と繰上指定請求したものであるところ、右納期限の指定請求は納付すべき金額に照らして履行の不可能な納期限の指定請求であって、重大かつ明白な瑕疵がある。仮に右納期限の繰上指定請求が形式的に適法であっても、実質的には権利の濫用である。したがって、本件差押には、その前提となる納期限の繰上指定請求に重大かつ明白な瑕疵があるから、本件差押にも重大かつ明白な瑕疵がある。

2  (事後求償権による相殺)

(一) 被告は、昭和四八年八月二八日、博栄商事株式会社(以下「博栄商事」という。)から、同社が第三者に対し将来負担すべき債務につき一〇億四一〇四万八四六八円の限度で連帯保証をするとの委託契約の申込を受託した。

(二) 児玉は同日被告に対し、博栄商事が右委託保証契約に基づき被告に負担すべき求償債務について、連帯保証を約した。

(三) 博栄商事は、別紙消費貸借契約表記載のとおり、同表記載の各契約年月日に、同表記載の各貸主から、同表記載の利息・弁済期・弁済方法の約定で各金員を借り受けた。

(四) 被告は右各契約年月日に各貸主に対し、前記(一)記載の委託保証契約に基づき、博栄商事の債務について連帯保証を約した。

(五) 被告は右連帯保証債務の履行として別紙代位弁済表記載のとおり、各弁済日に、各貸主に対し、弁済した。

(六) 被告は原告に対し、昭和五三年五月二日到達の書面で、前記(二)記載の求償債務の連帯保証人である児玉に対する別紙求償権表記載の債権元本と遅延損害金のうち、別紙自働債権表記載の内金合計三億九七〇〇万八三一七円を自働債権とし、本件定期預金債権三億九七〇〇万八三一七円を受働債権として、対当額で相殺する旨の意思表示をした。

3  (事前求償権による相殺―その一)

(一) 被告と博栄商事間の委託保証契約、児玉と被告間の求償債務連帯保証契約の各締結、博栄商事による各金員の借入とこれに対する被告の連帯保証契約の締結は、前記2の(一)ないし(四)と同一であるから、これを引用する。

(二)(1) 博栄商事は、被告に対し、前記2の(一)記載の委託保証契約に付随して、前記2の(二)記載の求償債務の連帯保証人である児玉が租税公課を滞納して督促又はその財産の差押を受けたときは、被告の請求によって、被告が保証した金額を直ちに償還することを約した。

(2) 東京国税局長は、昭和五一年三月一五日、請求原因2記載の申告所得税等を徴収するため、児玉の所有する神奈川県足柄下郡箱根町字芦川町三五番一の土地等の不動産を差し押えた。

(3) 被告は、本件差押の前日である昭和五一年三月一五日、博栄商事の求償債務の連帯保証人である児玉に対し、前記(1)記載の特約に基づき、被告が連帯保証をなした前記2の(三)記載の借入金相当額の償還を請求した。

(三) 博栄商事は被告に対し、前記2の(一)記載の委託保証契約に付随して、博栄商事が被告に対して事前償還義務を負う場合、担保の提供を求め又は原債務の免責を請求しないことを約した。

(四) 被告の連帯保証債務の履行としての代位弁済及び相殺の意思表示は、前記2の(五)、(六)と同一であるから、これを引用する。

4  (事前求償権による相殺―その二)

(一) 被告と博栄商事間の委託保証契約、児玉と被告間の求償債務連帯保証契約の各締結、博栄商事による各金員の借入とこれに対する被告の連帯保証契約の締結は、前記2の(一)ないし(四)と同一であるから、これを引用する。

(二)(1) 博栄商事は、被告に対し、前記2の(一)記載の委託保証契約に付随して、博栄商事が被告に対して負担する債務の一つでも期限に弁済しなかったときは、当然に、被告が連帯保証する金額全部について直ちに償還することを約した。

(2) 前記2の(三)記載の借入金債務のうち、別紙消費貸借契約表中番号3の契約に基づく借入金の内金六〇〇万円の弁済期は昭和五一年二月二八日、同表中番号4の契約に基づく借入金の内金六〇〇万円の弁済期は同年三月一〇日、同表中番号5の契約に基づく借入金の内金三〇〇万円の弁済期は同年二月二八日と定められていた。

(3) 被告は、本件差押の前日である昭和五一年三月一五日、博栄商事の求償債務連帯保証人である児玉に対し、右(2)記載の借入金債務の弁済期の到来によって発生した博栄商事に対する事前求償権一五〇〇万円の履行の請求をした。

(三) 担保提供、原債務免責の各不請求の特約は、前記3の(三)と同一であるから、これを引用する。

(四) 被告の連帯保証債務の履行としての代位弁済及び相殺の意思表示は、前記2の(五)、(六)と同一であるから、これを引用する。

5  (事前求償権による相殺―その三)

(一) 被告と博栄商事間の委託保証契約、児玉と被告間の求償債務連帯保証契約の各締結、博栄商事による各金員の借入とこれに対する被告の連帯保証契約の締結は、前記2の(一)ないし(四)と同一であるから、これを引用する。

(二)(1) 遅滞による全部償還の特約については、前記4の(二)の(1)と同一であるから、これを引用する。

(2) 博栄商事は、被告に対し、昭和五一年二月末ころ、ボーリング場建設資金の用途に長期手形借入金四四〇〇万円の債務を負担していた。

(3) 博栄商事は、遅くとも昭和五一年三月一五日までに、被告に対し、右借入金債務の担保を毀滅し又はこれを減少せしめた。

すなわち、博栄商事は、同月当時、約七億七二〇〇万円の累積赤字を計上し無資力の状態にあったところ、その連帯保証人である児玉が東京国税局長から、昭和五一年三月一五日、前記3の(二)の(2)記載のとおりその所有する不動産について差押を受けた。

(4) 被告は、前記3の(二)の(3)記載の償還請求の際に、児玉に対し、前記(2)記載の借入金債務の期限の利益を喪失させる旨の意思表示をした。

(三) 担保提供、原債務免責の各不請求の特約は、前記3の(三)と同一であるから、これを引用する。

(四) 被告の連帯保証債務の履行としての代位弁済及び相殺の意思表示は、前記2の(五)、(六)と同一であるから、これを引用する。

6  (事前求償権による相殺―その四)

(一) 被告と博栄商事間の委託保証契約、児玉と被告間の求償債務連帯保証契約の各締結、博栄商事による各金員の借入とこれに対する被告の連帯保証契約の締結は、前記2の(一)ないし(四)と同一であるから、これを引用する。

(二) 博栄商事は被告に対し、前記2の(一)記載の委託保証契約に付随して、被告が右委託保証契約に基づき、博栄商事の他に負担する債務について連帯保証をしたときは、被告は博栄商事に対し、右連帯保証した金額につき事前求償権を取得することを約した。

(三) 担保提供、原債務免責の各不請求の特約は、前記3の(三)と同一であるから、これを引用する。

(四) 被告の連帯保証債務の履行としての代位弁済及び相殺の意思表示は、前記2の(五)、(六)と同一であるから、これを引用する。

四  抗弁に対する答弁

1  抗弁1(差押の無効)のうち、原告の機関である玉川税務署長が児玉に対し、昭和五一年三月一三日送達の繰上請求書で、請求原因2記載の申告所得税等の合計一六億三〇二九万九二八五円の納期限を同月一五日午前一二時と繰上指定請求したことを認め、右差押に重大かつ明白な瑕疵があることを争う。

2  同2(事後求償権による相殺)のうち、(六)を認め、その余は知らない。債権差押がなされたときにおいて、第三債務者が相殺をもって差押債権者に対抗できるのは、第三債務者の有する自働債権が右差押前に取得されている場合に限られるべく、本件にあっては、被告が相殺の自働債権に供した児玉に対する連帯保証に係る求償権は、被告が博栄商事の前記借入金債務について連帯保証人として弁済したときに発生したもので、その時期はいずれも原告による本件差押の後であるから、本件相殺は原告に対抗できないものである。

3  同3ないし6(事前求償権による相殺―その一ないし四)のうち、3の(二)の(2)、5の(二)の(3)のうち、児玉が東京国税局長からその所有する不動産について差押を受けたこと及び3ないし6の各(四)のうち、2の(六)のとおりの相殺の意思表示がなされたことは、いずれも認めるが、3の(二)の(3)、4の(二)の(1)、(3)、5の(二)の(1)、(4)を否認し、その余は知らない。

五  再抗弁と原告の答弁に対する反論

1  再抗弁

(一) (不相殺特約―抗弁2ないし6に関して)

被告は、本件相殺に先立って、児玉との間に本件定期預金債権については相殺の用に供しない旨の特約をなした。

(二) (弁済期の猶予―抗弁4に関して)

(1) 博栄商事は、抗弁4の(二)の(2)記載の各借入金債務について、各貸主から、その弁済期を、昭和五一年二月二七日、別紙消費貸借契約表中番号3の借入金債務の内金六〇〇万円について同年一一月二八日に、同年三月八日、同表中番号4の借入金債務の内金六〇〇万円について同年一二月一〇日に、同年二月二八日、同表中番号5の借入金債務の内金三〇〇万円について同年一一月三〇日に、それぞれ猶予された。

(2) 被告は博栄商事に対し、博栄商事が前記(1)記載の弁済期の猶予を得ることにつき、あらかじめ同意していた。

2  反論

(一) 抗弁2に関して

(1) 債権差押がなされたときにおいて、第三債務者の有する自働債権が右差押後に発生した場合といえども、自働債権発生の原因たる法律関係が右差押に先行しているときには、第三債務者の相殺の期待は保護されるべく、右相殺をもって差押債権者に対抗し得るところ、本件にあっては、抗弁2の(一)、(二)、(四)各記載の委託保証契約、速帯保証契約及び求償債務についての連帯保証契約によって、児玉に対する被告の前記求償権発生の原因である法律関係は、その差押前に成立しているのであるから、本件相殺は原告に対抗し得るものというべきである。

(2) 抗弁2の(一)、(二)、(四)各記載の委託保証契約、連帯保証契約によって、被告が博栄商事及び児玉に対して有する叙上求償権は、具体的求償権発生事由の顕現を停止条件として既に発生しており、又は該事由の顕現までその行使を制限されながらも既に発生しているものであって、右の発生時期は、原告による本件定期預金債権の差押に先立つものであるから、本件相殺は原告に対抗し得るものというべきである。

(二) 抗弁3に関して

抗弁3の(二)の(3)記載の償還請求は、履行の請求と同一のものであって、民法四五八条、四三四条の適用又は準用によって、連帯保証人である児玉に対する右請求は、主債務者である博栄商事に対しても効力を及ぼすというべきである。

(三) 抗弁5に関して

主債務者である博栄商事には資力がなく、その連帯保証人である児玉の信用に依拠して債権が成立、存在している事情のもとにおいては、抗弁5の(二)の(3)記載のとおり、児玉が滞納租税債権につきその不動産差押を受けたことは、博栄商事に対する関係では、同社が「担保ヲ毀滅シ又ハ之ヲ減少シタルトキ」民法一三七条二号)に該当すべく、仮に博栄商事に対する関係では、児玉の滞納租税債権についての不動産差押との事実によっては当然には期限の利益を喪失しないとしても、抗弁5の(二)の(4)記載の被告から児玉に対してなしたその期限の利益を喪失せしめる旨の意思表示は主債務者たる博栄商事にも効力を及ぼし、これによって博栄商事は被告に対し負担する債務につき期限の利益を喪失し、したがって、抗弁5の(二)の(2)記載の借入金債務についてその弁済期が到来し、同(二)の(1)記載の特約によって、博栄商事は、被告の保証金額全部について被告に対し、償還義務を負うに至った筋合であって、結局被告の児玉に対する連帯保証に係る求償権は、本件差押前に発生しているから、本件相殺をもって原告に対抗し得るものというべきである。

六  再抗弁に対する答弁

1  再抗弁(一)(不相殺特約)を否認する。

2  同(二)(弁済期の猶予)は知らない。

右弁済期の猶予は、民法四六〇条二号但書により保証人である被告には対抗できないから、被告は適法に求償権を行使しうるものである。

3  (再反論)

保証人が主たる債務者に許与せられる期限の猶予についてあらかじめ同意をしているときには、民法四六〇条二号但書の適用はなく、被告にも右弁済期の猶予の効果が及ぶから、前記借入金債務内金につき本件差押前に弁済期は到来せず、被告に求償権が発生する余地はない。

第三証拠《省略》

理由

第一  請求原因事実は、すべて当事者間に争いがない。

第二  抗弁及び再抗弁について

一  まず、本件差押の効力について検討する。

原告の機関である玉川税務署長が児玉に対し、昭和五一年三月一三日送達の繰上請求書で、請求原因2記載の申告所得税等の合計一六億三〇二九万九二八五円の納期限を同月一五日午前一二時と繰上指定請求したことは当事者間に争いがない。そして弁論の全趣旨によると、右繰上指定請求は、国税通則法所定の手続に従ってなされたものであることが認められ、いずれも関係法規によって適法になされたことが明らかである。被告は右争いのない事実のもとで、その繰上指定請求は、納付額に照らして履行不可能な納期限の指定請求で、重大かつ明白な瑕疵があり、また権利の濫用であると主張するものであって、独自の見解にすぎず、抗弁1は理由がない。

二  抗弁2(事後求償権による相殺)について判断する。

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

1  被告、博栄商事及び児玉の三者は、昭和四八年八月二八日、博栄商事は被告に対し、博栄商事が第三者に対し将来負担すべき債務につき一〇億四一〇四万八四六八円の限度で連帯保証することを委託し、被告はこれを受託することを約し、また児玉は被告に対し、博栄商事が右委託保証契約に基づき被告に負担すべき求償債務について連帯保証を約し、以上の各合意を含む支払保証約定書を取り交したこと、

2  博栄商事は、別紙消費貸借契約表のとおり、同表記載の各契約年月日に、同表記載の各貸主から、同表記載の利息・弁済期・弁済方法の約定で各金員を借り受け、また右各契約年月日に、被告は各貸主に対し、右1記載の委託保証契約に基づき、博栄商事の債務について連帯保証を約したこと、

3  被告は、右連帯保証債務の履行として、別紙代位弁済表記載のとおり、同表記載の各弁済日に、各貸主に対し、弁済したこと、

そして被告が原告に対し、昭和五三年五月二日到達の書面で、前記1記載の求償債務の連帯保証人である児玉に対する別紙求償権表記載の債権元本と遅延損害金のうち、別紙自働債権表記載の内金合計三億九七〇〇万八三一七円を自働債権とし、本件定期預金債権三億九七〇〇万八三一七円を受働債権として、対当額で相殺する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。

以上の事実からすると、被告が相殺の用に供した自働債権は、委託を受けた保証人の地位に基づく求償権を児玉が連帯保証したことによる債権で、被告が右地位に基づき各貸主に対し弁済をなした時点で発生したものであることが明らかであって、右自働債権の発生期である各弁済期が、いずれも原告による本件差押に後発するものであることは、いうまでもない。

ところが被告は、委託を受けた保証人がその地位に基づき有する求償関係という法律関係が差押に先行していれば、この求償権を自働債権とする相殺の効力を先行する差押に対抗することができると主張する(抗弁2及び再抗弁と原告の答弁に対する反論2の(一)の(1)、(2))ので、この点について当裁判所の見解を示す。

相殺の制度は、互に同種の債権を有する者の間において、相対立する債権債務を簡易な方法で決済し、もって両者の債権関係を円滑かつ公平に処理するという目的を有するものであって、これを相殺をなす者(相殺権者)からすれば、受働債権につきあたかも担保権を有するが如き地位が与えられるとの機能を営むものであるが、他方、その受働債権に対する差押債権者にすると、その自働債権の存在及び内容は、多くの場合これを知ることがないことも明らかであるところ、相殺の能否は、相殺権者と差押債権者とをめぐる受働債権の帰属という課題に帰すべく、この帰属の判定基準は、前記の制度目的に鑑み、両者の利害を配分的に調整し、各権利行使についての期待と備えとに即応するものであると共に、基準の一般的属性及び法律関係の安定から、明確かつ合理的なものであることを要する。

以上の見地からすると、相殺をなし得るには、差押がなされた時点において自働債権が発生していることを要し、単に自働債権発生の原因たる法律関係が発生しているだけでは足りないと解するのが相当である。このことは、民法五一一条が「支払ノ差止ヲ受ケタル第三債務者ハ其後ニ取得シタル債権ニ依リ相殺ヲ以テ差押債権者ニ対抗スルコトヲ得ス」と規定していることからも裏づけられ、また実質的に考えてみても、相殺権者と差押債務者との間においては、自働債権の発生要件及び発生時期について特約を自由に締結することができ(わけても右相殺権者が委託を受けた保証人であるときは、右特約の締結は容易であろう。)、この特約は差押債権者に対し原則としてそのまま効力を有する(最高裁判所昭和四五年六月二四日大法廷判決・民集二四巻六号五八七頁、同昭和五一年一一月二五日一小廷判決・民集三〇巻一〇号九三九頁参照)のであるから、相殺権者においてこのような事態にも備えた特約によって十分自己の権利を確保することが可能であるからである。

ところで本件における事実関係は、前記1ないし3認定のとおり、委託を受けた連帯保証人である被告が相殺権者として自働債権の用に供した債権は、前記各貸主への弁済によって発生したものであって、本件差押に後発するものにすぎないことが明らかであり、先行する差押に優先するが如き特約は認められないから、右認定事実関係のもとでは、その相殺をもって差押債権者である原告に対抗するを得ないので、被告の前記各主張はいずれも採るを得ない。

三  抗弁3(事前求償権による相殺―その一)について考察する。

1  抗弁3の(一)の各事実は、前記二の1、2のとおり肯認されるところである。

2  そして《証拠省略》によると、博栄商事が被告に対し、前記委託保証契約に付随して、この委託保証に基づき博栄商事が被告に負担すべき求償債務の連帯保証人である児玉において、租税公課を滞納して督促又はその財産の差押を受けたときは、被告の請求によって、被告が保証した金額を直ちに償還すること、すなわち、滞納公租の督促、差押等の信用悪化の徴候の顕現下における償還請求の意思表示を要件として被告のためにいわゆる事前求償権を発生せしめる旨の特約を結んだことが認められ、この認定に反する証拠はない。

3  そこで右特約に定める要件の充足について考える。

(一) まず、児玉が昭和五一年三月一五日、請求原因2記載の申告所得税等を滞納して、東京国税局長から児玉の所有する神奈川県足柄下郡箱根町字芦川町三五番一の土地等の不動産の差押を受けたことは当事者間に争いがない。

(二) 次に右償還請求の意思表示について、被告は、本件差押の前日である昭和五一年三月一五日、児玉に対し、右特約に基づき電話により口頭で償還請求をなした旨主張するので、これについて検討する。

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1) 博栄商事は、昭和四九、五〇年度と連続して赤字を計上し、昭和五一年三月三一日には累積赤字が三億七二二六万三七三三円に達するなど経営状態が好ましくなかったのにもかかわらず、同社に対し被告は多額の与信を行っていたものであるが、これら多額の与信は、被告の長年にわたる大口の取引先である児玉において博栄商事の連帯保証人として担保を提供する等被告の債権確保に協力していたので、同人の信用に依存、期待してなされたもので、被告は児玉の信用状態に重大な関心を有していたこと、

(2) いわゆるロッキード事件の発覚により、昭和五一年三月当時、児玉は、脱税問題について、国税、検察各当局から追及を受け、滞納処分としての差押を受ける高度の蓋然性が生じ、その信用不安を惹起したものの、同人の周囲は、右各当局による捜査、多数の報道機関による取材などで騒然としていて、同月一五日以前においては、被告は児玉と連絡を取ることが困難で、同人との間の連絡手段を模索しているうち、本件定期預金債権を含む児玉の被告に対する債権につき原告からの差押の蓋然性が強くなったため、被告としてはこれに相殺をもって対処すべく、当時の被告築地支店次長加藤賢洋(以下「加藤次長」という。)は、昭和五一年三月九日ころから、委託を受けた保証人の地位に基づく事前求償権発生の要件及びこれと本件定期預金債権との相殺の効果の対抗関係等について文献を収集して研究を始めたこと、

(3) しかしその研究開始当初の段階において、加藤次長は、本件定期預金債権について原告から差押を受けた後でも被告が償還請求をすればそれによって発生した事前求償権と本件定期預金債権との相殺の効果は、右差押に優先するものとの認識を有していたところから、同月一五日付各新聞社夕刊によって児玉が繰上請求にかかる滞納税を納期限までに支払わなかったこと及び国税当局は児玉の財産を差し押える見込であることを知り、また同日の約一週間以前から、連日、児玉への滞納処分が同月一五日になされる見込である旨の報道がなされていることを知っていたものの、同日までの間、博栄商事又は被告に対する具体的償還請求措置を何らとらなかったこと、

(4) 同月一五日午前一一時ころ、児玉の秘書である太刀川恒夫(以下「太刀川」という。)から加藤次長に対し電話があり、その後数回にわたって両者の間に電話交信がなされたが、その内容は、太刀川名義の預金通帳の差押状態下における該預金の払戻方に関するものであって、太刀川は同月一六日、被告築地支店に出向いて右預金の払戻を受けていること、

(5) 被告は、児玉に対し、昭和五一年三月一八日到達の同月一六日付償還請求書で、その償還方を請求しているところ、該書面の起案、出状事務を担当した岩田成就支店長代理は、この起案につき直属上司である加藤次長からの指示を受けることなく、他の請求書と同様、日常的事務として起案、出状したものであって、銀行実務においては、緊急の場合に電話による口頭で償還請求したときは、後日の証拠確保のため、その旨記載した内容証明郵便を発出する例であるのに、右償還請求書には、その旨、すなわち同月一五日に電話による口頭の償還請求の意思表示をした旨の記載はないばかりか、右起案、出状の過程に右意思表示がなされたことを窺わしめる事実はなく、また、加藤次長は、右償還請求書につきその起案、出状したこと自体さえも確認していないこと、

(6) 前記研究過程で加藤次長が収集した文献中には、滞納処分による債権差押が先行する場合には、相殺すべき反対債権を有する銀行は、あらかじめその旨の陳述書を作成して、徴収職員に交付することが望ましいとの記載があるにもかかわらず、加藤次長は、同月一六日、被告築地支店における本件差押手続に立会しながら、右旨の陳述書を交付せず、また差押前に電話による償還請求の意思表示をなし、これによって相殺すべき反対債権を有することについて徴収職員に対し口頭でも告知しなかったこと、

(7) 本件差押に係る定期預金の支払問題について原告、被告間で交渉が継続していたのに、被告は早くとも昭和五二年一二月一三日までは、国税当局に対し、本件差押前に、児玉に対し、電話による口頭で償還請求の意思表示をしたとの主張をなしていないし、被告内部においても、同日までは、加藤次長及び同人から報告を受けたとされる当時の被告築地支店長米山栄三以外には、加藤次長の後任者森田哲夫も含めて、右電話による償還請求の事実は知られていなかったこと、

以上の事実を要するに、加藤次長は、前記事前求償権等に関する研究に着手したものの、その当初の段階においては、原告による本件差押後であっても、償還請求の意思表示によって発生する事前求償権と本件差押に係る定期預金債権とを相殺すれば、その効力は原告による差押に優先するものとの認識を有していたところから、前記のとおり原告による本件定期預金債権の差押が切迫していた状況のもとでも、博栄商事又は児玉に対し、書面又は電話等により償還請求の意思表示をなし、よって事前求償権を発生せしめるための具体的措置をとることなく、また前記太刀川との電話の応酬も同人の預金の払戻方に終始し、本件差押後においても、前記償還請求書の起案、出状事務を担当した岩田支店長代理に対し、何ら指示を与えることなく、さらに本件差押への立会及びその後の原告との交渉における対応並びに被告内部の状況に関しても前示のとおり、いずれも概ね消極的態度を持して推移したことが明らかである。そして証人太刀川恒夫、同加藤賢洋の各証言のうち、同年三月一五日、太刀川と加藤次長との間の電話による応酬の機会に、加藤次長が口頭で児玉の使者である太刀川に対し、償還請求の意思表示をしたとの供述部分は到底信用できず、他に被告の主張事実を認めるに足りる証拠はないから、結局その余の点を判断するまでもなく、抗弁3は理由がない。

四  抗弁4(事前求償権による相殺―その二)について考察する。

1  抗弁4の(一)の各事実は、前記二の1、2のとおり肯認されるところである。

2  そして《証拠省略》によると、博栄商事が被告に対し、前記委託保証契約に付随して、博栄商事が被告に対し負担する債務の一つでも期限に弁済しなかったときは、当然に、右保証委託に従って被告が連帯保証する金額全部について直ちに償還することを約したことが認められ、この認定に反する証拠はない。

右約定は、主債務者の弁済期の懈怠という特定の具体的な信用悪化の事態の顕現を要件として、被告にいわゆる事前求償権を当然に発生せしめる特約であって、この特約の有効性は、原告に対する関係においても妥当すると解される。

3  次に右特約に定める要件の充足についてみるのに、《証拠省略》によると、別紙消費貸借契約表中番号3の借入金の内金六〇〇万円の弁済期については本件差押前である昭和五一年二月二八日、同表中番号4の借入金の内金六〇〇万円の弁済期については同年三月一〇日、同表中番号5の借入金の内金三〇〇万円の弁済期については同年二月二八日と、それぞれ各借入時に、各貸主との間で合意されていたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

五  進んで再抗弁(二)(弁済期の猶予)について判断する。

《証拠省略》によると、前記四の3認定の各弁済期につきその到来前に、各貸主から、別紙消費貸借契約表中番号3の借入金内金六〇〇万円については昭和五一年一一月二八日に、同表中番号4の借入金内金六〇〇万円については同年一二月一〇日に、同表中番号5の借入金内金三〇〇万円については同年一一月三〇日にと、いずれも本件差押後の期日に猶予されていたこと及び右各弁済期の猶予についてはあらかじめ保証人である被告の同意を得ていたものであることが認められ、この認定に反する証拠はない。

そうすると、この弁済期猶予の効力は被告に対してもまたそのためにも及ぶものと解され、右各借入金の内金合計一五〇〇万円についても本件差押前に弁済期が到来したものとはいえないから、その余の点につき判断をなすまでもなく、抗弁4は理由がないといわざるを得ない。

六  抗弁5(事前求償権による相殺―その三)について考察する。

被告は、博栄商事が被告に対して負担する借入金債務について、右債務の連帯保証人である児玉において前記第二の一、三の3の(一)認定の申告所得税等の繰上請求を受け、かつ、滞納処分としての差押を受けたことをもって、民法一三七条二号所定の事由に該当し、これにより当然に、又は、被告が児玉に対し履行の請求をすることによって右借入金債務の弁済期が到来し、したがって、前記四認定の特約に基づき被告の博栄商事に対する事前求償権が発生するものと主張する。

しかし右条号は、債務者の行為についての定めであることは明らかであって、いかに債務が連帯保証人の信用に専ら依存期待して成立又は存続している場合であっても当事者間に特約がない限り、前記主張のような債務者の意思に無関係に発生した事実をもって右条号所定の期限の利益喪失事由と解することはできないから、右被告の主張は独自の見解というべく、右主張を前提とする抗弁5については、その余の点につき判断をなすまでもなく理由なきに帰する。

七  抗弁6(事前求償権による相殺―その四)について考察する。

1  抗弁6の(一)の各事実は前記二の1、2のとおり肯認されるところである。

ところで、被告は、博栄商事が被告に対し、前記委託保証契約に付随して、被告がこの契約に基づき、博栄商事が他に負担する債務について連帯保証をしたときは、被告は博栄商事に対し、右連帯保証した金額につき事前求償権を取得することを約した旨主張する。そして、右主張に沿う証拠としては《証拠省略》があり、同証は、博栄商事が被告に対し、前記保証委託をするに際して取交した支払保証約定書であって、その中には、「貴行(被告)が支払承諾をした債務(以下「原債務」という。)について、依頼人(博栄商事)は、支払期日の前日迄に支払資金を貴行に預託するなど、原債務の支払期日には、その債務を履行し、貴行にはいっさい負担をかけません。」との文言の記載があることが認められる。しかし、右文言自体によって、被告においてその委託による債務保証をなすと同時に、その発生要件、時期等について他に何らの特別の定めなく、いわば無条件ないし無制約的に、直ちに博栄商事に対する事前求償権を発生、取得せしめることを約したものとは到底読取できないところであり、また右文言を右の如き趣旨に解読すると、この文言の存在によって事前求償権の発生については包括的に定められたこととなり、前記三、四の各2認定のとおり、発生要件を

体的詳細に定めた各事前求償権発生の各特約については、これらを定める必要はなく、その存在理由を喪失するものというべきであるから、かような解読はきわめて不合理である。結局叙上認定事実と弁論の全趣旨によると、右文言は、博栄商事に対しては、抽象的に原債務の履行義務を課し、他方被告のためには、民法所定の事前求償権関係の成立を確認的に表白したものにすぎないと認められる。

他に被告の前記主張を支持するに足りる証拠はないので、抗弁6も採用に由ない。

第三  よって原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 薦田茂正 裁判官 中野哲弘 根本渉)

<以下省略>

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